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アルビレックス新潟と 飼い猫と アイカタと。
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  *行き倒れではありません。寝ているだけですの^‐^


月曜夜のテレビで、“若年性認知症”についてやっていまして。
多くの病気がそうであるように、認知症もまた早期発見が重要だそうです。
そこで、簡単なテストをやっていたので
やってみることにしました。
最初は、今日の日にちを答えたり
100から数字を2回引き算して、その答えをひとつずつ答えるというものから
関連のない単語を3つ復唱したり
エンピツ、スプーンなど普段使うアイテムが5つ登場して
隠してから何があったか答えたりと
いかにもそれっぽいものまで。
いくつ正解出来たかで点数がつけられ、
その合計によってそれが認知症の疑いがあるか
ただ 単に忘れっぽいのかを判定してくれるのですが
かまえてやったせいか、答えられなかったのはヒトツだけ。
ワタクシのもの忘れは、いまのところ【ただ単に忘れっぽい】だけ。
というお墨付きをいただいて、ちょっと安心♪

翌朝。
きのうの朝は7時を過ぎると陽が差して暖かく、
ねこプーちゃんが 『窓を開けてくれろ』というので開けてあげました。
外気が入ってくるとさすがに寒い。
それでも鼻のあな全開で外の空気を吸うプーちゃん。
まあいいか。
しばらくして閉めようと窓を見ると、またそこに座っていたので閉めるのを止めた。
数十分経過。
カイシャへ行かなくちゃ。
しばしバタバタタイム。
2階へ行ったり戻ったり。
ねこプーちゃんのトイレを確認して、必要があれば片づけたり
浴室と脱衣所に換気扇を入れたり。
出かける直前に、テレビとエアコンの電源を切って
カギをかけて出発。
クルマを開けようとして気づく。
あ。窓。閉めてないや。
自信があった。
季節がよくなって、毎朝開けるようになると
たしか閉めたよな。とその光景を思い浮かべるのだけれど
はたしてそれが今日やったものだったのか
毎日同じ景色を眺めるので、
その情景が昨日見たものなのか自分の中でアヤシクなることが、けっこうある。
玄関のカギもしかりで、たったいまかけたはずが 
クルマから降りてもう一度ドアに触りに行ったりもする。

でもいまは別。
この時間に窓を開けたのは、ホントにひさしぶりだ。
だって、あの雪だよー(*_*)
いけないいけない。あけっぱで出かけるトコだったわー。
玄関を開けて、中へ。
窓を閉める気満々で、絶句。
締まってるー。
カギ、かかってるーーー。
いつだ。
いつのタイミングで閉めたんだ。
考えられるのは、上に行くついで。
でも憶えてない。
全然。  なんかショック。


*2月13日 ねこプーちゃんは16歳の誕生日を迎えました。
 ヒト年齢にして、約80歳。
 ボケることはないのでしょうか。
 出来ることなら、辛かった日々は、忘れてしまっていてほしい。








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高知キャンプに入ってから
今日が初めての対外試合でしたね。
練習試合ではありましたが、高知大学相手に5-1での勝ち。
スバラシイ。
どんな試合でも、どんな相手でも勝つことが大事。
今の時期は連係がイマイチなのは仕様ですから。
内容云々よりも、まずは勝つこと。
2008年、開幕前の練習試合に一度も勝てなかった事は忘れていません。
だからというわけではないけれど
結果にこだわっていくことで、
内容をおざなりにするようなチームではないと思っています。
別メらしいミシェウも、
打撲のために試合を回避したナカノヒロシも
今はあせらなくてもいいから。
シーズンが始まれば、
嫌でも無理をしなければならない時がくるかもしれません。
その時に、うんと無理が出来るように。
いまはじっくりと治すことが先決です。



すこし前になりますが
J's GOALに千代たんの新加入会見の様子が載っていました。
名古屋さまでは新加入の選手を一度に披露するのではなく
細かく分けて記者会見を行っていましたが
そのどれもが華やかなカンジ。
チームのマークが入ったパネルを背景にして
会見に応じる千代たんは ニイガタに加入した時よりも
堂々として自信を持って臨んでいるように見えました。
意外だったのは、
名古屋からオファーを受けるのは3回目だという事実。
1度目は 高校を卒業する時。
2度目は 福岡が降格した時。
そして3度目が、今回。
名古屋さまにしたら、“3度目の正直”といったところでしょうか。
『とりあえず参戦する名古屋さま』 というイメージは、
以前から少なからずありました(失礼な)。
けれど、1人の選手に対して
10数年に渡ってオファーを出し続けるというのは、それはそれですごいかも。
“とりあえず”どころか 想いの強さを感じます。
1度目の時は大学進学の道を選び
2度目は確か“いちばんに声をかけてくれたから”という理由で
マイチームを選んでくれた千代たん。
想いの強さを貫いた名古屋というチームが
千代たんにとって約束されたチームだったとしたら
そのキャリアの途中に 
ニイガタがあったことはシアワセだとあらためて思うワタクシ。
これから体験する新しいことは、
いままで積み重ねてきた経験と融合し、蓄積されて
サッカープレイヤーとしての千代たんをより引き上げてくれるはず。
今年の補強の仕方を見ても、優勝を目指しているのは一目瞭然。
名古屋さまの補強が毎年ゴーカなのは仕様でもありますが強調してますかそうですか
どうやら本気みたいなので
そこに呼ばれたのだから、頑張らなくてはなりません。

千代たんガンバレ。という想い。
結果を出してほしい。という想い。
でも名古屋さま(というより他のチームだな)は頑張らんでええ。というキモチ。
全部ホントなのだけど
向いてる方向が一致していない。という事実。
仕方ないわー。
だってナゴヤ、カテゴリが一緒なんだもん。
マイチームがいちばん大事に決まってんぢゃん。
千代たんと(ナゴヤではなく、千代たん)対戦したら、
すっげージャマくさいんだろうなー。(ーー;)


逆もまた真なり。ということで。
今シーズン、大宮から移籍してきてくださった小林慶行さん。
実はワタクシ、このヒト大っきらいだったんであるww
加入のニュースを聞いて顔を思い浮かべた時
真っ先に思い出したのは 2008年のナビ予選(たしかナビ・・)
ウチのアトムたんを思いっきり削りやがったヤロウだな(-_-メ)
絶対忘れない。
あの時アトムはスタメンで、キレキレだった。
チームもアトムに引っ張られるように、
攻撃のリズムを作り出せていた。
それをコイツが阻止。無念の負傷退場に(涙***
アトムがピッチから消えるととたんに形勢は不利になり、負けたんである。
松葉づえを使って選手バスに乗り込むアトムたん(>_<)
大事には至らず、強度の打撲で済んだのだけれど
なかなかスタメンで出る機会のなかったアトムを
もっと見ていたかったという思いと
あのままプレーしていたら、
試合はどうなっていただろうという思いとが交錯する。
大宮戦でジャマされる時は、
このコバヤシというヒトが目について
ジャマくせーぞコバヤシ。
とほとんど目のカタキにしておりました。
2009年。
監督と合わずに、キャプテンでありながら柏へ移籍(レンタル)。
サッカー選手である以上、試合に出なきゃ始まらない。
移籍した途端にケガで離脱。
なんだよ。とちょっと思った憶えがある。
ワタクシにとってのヒールは、ケガで離脱なんかしちゃダメでしょ。
悔しかっただろうな。とも思った。
この年、コバヤシさんが活躍したのかどうかは、記憶にない。
たいがい他のチームの選手のことは、憶えていないのだけど。
そんな(ワタクシにとっての)道程を経て
マイチームに来てくれたコバヤシさん。
『まずはアトムに謝んなさいよねーーー<(`^´)>』 
と噛みついておりましたが
『自分の持っているすべてをチームのために』 というコメントや
キャンプのレポートを読むかぎりでは
彼も相当の決意をもって 
マイチームの選手になってくれたのだなと そう思える。
ヤなやつほど 味方になったら頼もしいのもまた真なり。
小林さんは、ニイガタに来てくれなかったら
【ウチのアトムを削ったヤなやつ】で終わっていただろうし
千代たんにしても “なんか面白いナマエのひと。”
で終わっていたに違いない@ワタクシの中で。
Jリーガーはたくさんいて、
J1のカテゴリでプレーする選手もたくさんだけど
その中で マイチームと出会い
選んでくれる選手はわずかだから。
そう考えると、そこにはやはり何かの運命を感じる今日このごろ。

環境を変えること=移籍先のチームが
すべての選手にとっての
“約束の場所”になるかどうかはわからないけど
『ここに来てよかった。』と思ってもらえるように。
あるいは、『ここにいてよかった。』と思ってもらえるように。
こころをこめて、応援します。^‐^


















1月、なかばすぎ。
もうひと月もすると 
ねこプーちゃんの誕生日だな。

いくつになるんだろ。1994年に生まれたから、えーと16歳。
ニンゲンの年になおすと、およそ80歳。
最初に会ったときは、手のひらに乗っかる赤ちゃんだったのに。
80歳だって。
ウチの父親よりも年上になっちゃうね。
ねこに流れる時間は
自分のオヤよりも上に連れていくんだね。
まとまりもつかない想い。
それからほどなくして 父が亡くなりました。
大のねこ嫌いだったのに 
会うたびに『プー、元気らか。』と聞いてきた。
1月21日のことでした。


元気でした。
年末、29日。 天皇杯の予定がなくなって、実家に行った時も。
毎年の決まりごとで、夕飯をごちそうになりに行った大みそかの夜も。
手術をした一昨年よりも 
母はたくさんのごちそうをテーブルに並べ
私たちは途中で買ったお寿司を広げました。
『あんまり勧めると飲みにくいだろうから。』と
ノンアルコールのビールを自分のコップに注ぎ
アイカタには発泡酒を注ぎながら
『もしかすると、
オマエたち今年は来ないんじゃないかて言ってたんぞー。』
と繰り返し話して。
『うん。天皇杯に勝ってたら、
今頃はコクリツ行ってたからねー。』
負けちまったなあ。と笑った父。
みんなでたくさんごはんを食べて、
来年もよろしく。と挨拶した。


いつもどおり 元旦にアイカタの実家へ行き
たくさんの野菜をお土産にもらって寄った時も
変わりない父だったのに。

『熱があるんだわ。』 
お正月が終わって少したった頃、
電話で母が言っていた。
病気をしてから 
少し疲れたりすると熱を出すようになった父ですが
1日寝ていると翌日には下がっていたから
また そういうのかな。と思っていました。
でも冬だし。
風邪やインフルエンザだったら困るねえ。

『入院した。』
母から電話があったのは、19日の夜でした。
肺炎ぽい。ということでした。
肺炎。肺炎て、よくないんじゃない?
風邪から肺炎になって、体力が落ちて・・ってよく聞くよね。
母の話をまとめると
風邪が原因ではないようでした。
22日に転院して、再手術を受けるということでした。
遅くても26日、状態によっては23、24日。
いずれにしても、
もう一度手術をすることには間違いないようでした。
『来なくていいからね。』
どうせすぐに転院するんだから。ってお父さんが言ってるから。
『わかった。』
と言って電話を切ってから、どういうことか考えてみた。
あんなに元気だったのに。
またあの手術をしなきゃならないのか。
20日夜、母に聞いてみる。
肺炎て言ってたけどさ、おとうさんどうなん?
『それが全然フツーなんだよね。』
難儀そうにもしていないし、廊下も自分でしっかり歩くし。
4人部屋にいるから、あんまり話もしてないけど
手術をする病院へも、自分でタクシーに乗れるからって。
それじゃあ 22日会社終わったら行くわ。
そう言って電話を切りました。

『今 病院から電話があって 
おとうさん容態が少し変わったんだって』
母から電話があったのが21日 朝08:00少しまえでした。
タクシー呼んでるんだけど、どうしよう。
母の言い方は切羽詰まっているわけでもなく、
どこかのんびりしていました。
『迎えにいくから。』と言ったのはいいけれど
シゴトが10:00からということもあって、全然準備もしてなくてww
道路は通勤渋滞。
おまけに天気が悪くていつもよりも道が混んでいました。
実家へ着くと、どうやら母はタクシーで先に行ったらしく
また病院へと道を戻ることになり。
強い風が吹きつけるみぞれ混じりのなか病院に着くと 
父は 息を引き取ったあとでした。
母も、間に合いませんでした。
看護師さんは、はっきり言ってくれなくて
わたしは 
『それって もう亡くなってるってことですか。』
と とても間抜けな質問をしてしまい
『はい。そうです。』という答えにも
どういう事なのか すぐにはわからなくて。


23日が友引だったので
24日に告別式をすることにして
お通夜まで1日たくさん父と過ごすことが出来ました。
普通なら 
亡くなった翌日がお通夜になることが多いから
その日のうちにいろいろな人に連絡しなければならないはずですが
1日時間をもらったことは 
特に母にはありがたかったと思います。
どなたに連絡をしたらよいか わたしには見当もつかないし
電話をかける母は、
“父が亡くなった”となかなか言えずに言い淀み
とても時間がかかってしまったからです。
決めておかなければいけないことは、待ってはくれません。
父といるとき気丈だった母が
さき先へと動くわたしたちに
ちょっといじけたりする場面もあって 切なくなったりもした。
手術をしてからは
好きなお酒をまったく飲まなくなった父に
アイカタは八海山を買ってきてコップに注ぐと
布団に寝かされている父の前、
ローソクやお線香やらが並んでいる間に置いた。


朝 05:30に起きて
お弁当を作って、朝はトーストにコーヒー。
アイカタが出かけたら洗濯機を回して 後片付け。
シゴトに出かけてシゴトから帰る。
帰り道にスーパーへ寄って買い物して。
週末はサッカー。
わたしたちの毎日は、そんなルーティーンワークを
継続することで成り立っていきます。
父が亡くなった21日から、告別式までの4日間
そんな日常の空間から 切り離されて過ごしていました。
そこに流れる時間は濃密で何もなく
淡々としているけれど 繰り返されるいつもの時間とは
まるで違うものでした。
父と母とわたしとアイカタ。
それから途中から泊ってくれた叔父。
お通夜の日の朝以外は食事がつかないため
わたしとアイカタは、みんなのごはんの心配ばかりしていました。
そこがどんなに普段通りではなくても
生きていればおなかが空くものです。



“明日また来るからね。”
タイトルは、父が亡くなる前の日に
病室を出る母が 父にかけた言葉です。
“おう。気をつけて帰れよ。” って言ってたばっかりなのに。
それ、わたしも聞いた事があるよ。
一昨年、父を見舞って帰る時。
退院してきてからは 実家によってから、ウチに帰る時。
“じゃねー。”
と言うわたしに、必ず父は返してくれました。
張りのある、父の声。
今も こんなに思い出せる。



“家族や娘や 仲良くしていた友達の顔も
誰だかわからなくなってしまったり
長いこと寝たきりになった揚句に死ぬのだけはイヤだな。”

風邪ひとつ引かなかった父が
病気になるずっとずっと前から言っていたことでしたが
まさに、望み通りでした。
やったね とーちゃん。
さすがだね。
そう思った時 ようやく涙が出てきた。
おとうさん。 アリガトウね。







  *ほぼ真上より撮影。


さむい。

とにかくさむい。
11日がゴホウビみたいな天気だったのを
まるで取り返すイキオイの冬型天気図。
連日でっかいユキダルマ@背景に降りしきる雪 マーク。
・・・の割には 思ったほど雪は降ってきません。
きのう今日は降るぞー降るぞと 
お天気キャスターさんに脅されまくっていましたが 
とりあえず ニイガタ市内の中心部の積雪は5cm強というところでしょうか。
シゴト中に電話をかけた長岡では
昨日は朝からガン降りだったらしく
広い駐車場をアタシひとりでどうしろと?と半ギレ(涙
うむ。

ウチの周りはと言えば、雪に関しては
12月のあのドカ雪に比べたら全然楽勝なんであるが
い か ん せ ん 寒 い 。(*_*)
カイシャから帰ってくると
買い物したものを冷蔵庫に入れるより先に
お弁当バコを洗うより早く
まずエアコンのスイッチを入れて 部屋を暖める。
ソファとソファにかけたブランケットのあいだにもぐり込んで
寒さに耐えていたねこプーちゃんが すかさず顔を出す。
ソファの背もたれの上に上がって
一心にエアコンの吹き出し口を見つめます。
そこからあったかい風が出ることも
風が降りてきてたまる位置も 
彼女はもう知っているのですが 
エアコンというヤツは、部屋があったまるまでに時間がかかる。
だって最初は 冷たい風が出るだもの。
ソファに並んで座って、少しの間を待つ。
外の冷たい風が出てくる時間 ちょっとガマンする。
ちんまりと隣に座って、ねこプーちゃんも待つ。
(まだ?)というように、顔を見上げてくるのが
いつものことなのだけど いちいちカワイイ。

そうこうするうちに
ちょっと落ち着いてきます。部屋もねこも。
ここでニンゲンが落ち着いてしまうと
もう何もしたくなくなるので 夜ごはんの支度にとりかかる。
寒い。
寒いから、あったまるものが食べたくなる。
ダイコンをたくさんもらったし。
スーパーでは、豚のすね肉がお安い。
おでん。
それから ポトフ。
連日煮込み系。
材料さえ切っちゃえば、後はコトコト煮込むだけ♪
・・・なんですがココで重要な問題が。
ウチはリビングダイニング。
って今でもそう言いますよねー??
ソファが置いてあるお茶の間(お茶の間て)と
ごはん食べるテーブルと
ごはん作るキッチンが仕切りのない同じ空間にある作りになってるアレざます。

火を使うので 換気扇を回す。
as soon as ちびっとあったまりかけていた空気が
渦巻いて換気扇の外へ。
つべたい空気が部屋じゅうに充満。
さむい。
煮込み系なので 長時間。
ねこプーちゃんはというと 背もたれの上から動かず。
よく見ると、ミケンにタテジワが
ねこにミケンがあるかどうかは置いといて、
あきらかにこんなん→(ー“ー)
しばらくすると、
なー(消せや)。
モンク言いにやってくる。
そーだよねー寒いよねープーちゃん。
とソファに連れ戻す。
なー(やめろや)。
連れ戻す。
3度くらい繰り返すと、あきらめたようにハコ座りで待つ。

ねこというイキモノは 本来狩りをする動物なので
待つという行為は苦にならないらしい。
そのうち 何を待っていたのか
しまいに待ってること自体を忘れたりするらしい。
冬のダイコンは、火が通るのも早い。
換気扇を消したら、ごはんが出来た合図。 
部屋はあったか。
あとは一緒に待つだけ。

“さ゛む゛~゛~゛っ゛っ゛”

冷たい空気を着こんで、アイカタが帰ってきます。

  *3年間 おつかれさまでしたん^‐^


1月8日に正式に発表された 千代たんの移籍のお知らせ。

シーズンも秋口を過ぎたころから
移籍の噂が絶えなかった千代たんでしたが
ウワサ先行っぽかったのが 
新年が明けてから急にざわざわし始めて
えっなんか雲行きがアヤシイかも。と思うまもわずか
発表になった時は あっけなかった。
耳に聞こえてくるのは 目に見えるのはほんのすこし。
ホントのところはわからない。
わかっているのは、
千代たんが現時点で出来る最良の選択をしたということ。


2010年1月11日。
成人の日だったこの日は
冬を忘れてしまいそうな、穏やかで風のない1日になりました。
天皇杯を終えてから
イスの背もたれにかけたままになっていた千代たんダンマク。
ひもとおもりを外して お陽さまに当てました。
いつまでもそのままにはしておけません。
もしも残留してくれたら
ひもを新しいのに変えて、
ゲーフラを入れていたカバーも新しく作ろう。 と考えていたけれど。

2007年 千代たんが加入した年に
後ろから支えてほしくて作ったダンマク。
ビッグスワンには その当初1枚もダンマクがありませんでした。
“誰か作ってくれないかな-***”と思いながら
スタジアムに通っていましたが、なかなか現れません。
ないなら自分で作ったらいいぢゃん。
とダンマク屋さんにオーダー。
出来上がってくるのを待つ間に、
何枚かがデビューすることになりました。

自分で決めて、自分で作ったので
自分のものには違いないのだけれど
選手の名前の入ったものだし、
3年のあいだの節目ふしめに
『千代反田充』の文字のひとつひとつに
千代たんのサインとメッセージを入れてもらってきました。
なので、自分のものであっても
大事な預かり物をしているようなキモチで大切にしてきました。
頑張ってるところ、ちゃんと見てるよ。応援してるよ。と伝えたくて
ホームゲームのたびに。
アウェイのスタジアムでは 
貼ることが出来ない試合もありましたが
累積などで出られない事がわかっていた以外は
必ず連れて行きました。
そうして
その役目を終えたダンマク。
ていねいにたたんで、
アイロンをかけたゲーフラと一緒にしまいます。
“字がいっぱいあって スミマセン。”と笑っていた千代たん。
『充』の部分は空白のままでした。


2003年の途中から
アルビレックスがスペシャルになり
“マイチーム”と思って応援してきたけれど
特定の選手にフォーカスして 
チームを見てきたのは初めてでした。
3年のあいだ、千代たんを応援してきてとても楽しかった^‐^
どれも忘れられないシーズンです。

もうニイガタの選手として
応援できなくなるのはとても寂しいけれど
“いつまでもニイガタの選手でいてほしい”と思う一方
ここで3年 頑張ってくれたから
新しいチームから迎えられる選手になったんだね。
今までの頑張りに とても感謝しています。
それから 千代たんのことは
きっとこの先も 
“頑張っているかな。”と
時々 気にかけながら見て行くと思います。
ダテにダンマク作ったわけじゃないし
ゲーフラも作ってもらっていないから。
元気で ケガなく頑張ってくれたら ワタクシはとてもウレシイ***



12日から また冬に逆戻りなニイガタ。
今回の冬型は 本来なら暖かいはずの九州や関西、
そして名古屋にも雪を降らせているようです。
マイチームの始動まで、あとわずか。
2010年のマイチームが どんな顔をしているのか
とても楽しみではありますが。
まず始めに。
セイローに行って
もう千代たんがそこにいないのだという
現実を受け止めるところから
ワタクシのシーズンは始まります。





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